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2006年10月30日 (月)

デザイアと呼ばれた男  VOL 11

          5

 鬼頭が店にやってきてから明らかにマユミの雰囲気が変わった。

俺が話しかければそれには答えたが、常に上の空といった感じだった。

マユミは必要最低限以外の言葉を話さず、黙々と仕事に打ち込み、時間を費やしている感じだった。

鬼頭が去った後、マユミは決してその話題に触れようとしなかったが、常に頭の中で過去の忌まわしい記憶がリピートしているようだった。

それはそうだ。

自分の恋人を殺し、自分を犯した者たちが目の前に現れたのだ。

 俺は國無から話を聞いて、過去に何があったのか知っている。

しかし、マユミは俺がそれを知っているとは思っていないだろう。

俺は二人の間にあるその溝を歯がゆく思った。

心の底では今すぐマユミを抱きしめ、心の痛みを少しでも和らげてやりたかった。

しかし、それはできない。

それが今ある現実の世界だった。

 夜になり、マユミは俺より一時間早く上がった。

帰り際までマユミは作り笑いをつくろっていたが、心はどんよりと沈んだままだった。

マユミの心の痛みが俺にも伝わってきた。

マユミに惚れている俺はすっかり同情し、マユミの決意を秘めた気持ちの変化にまつたく気づいていなかった。

 「ワールド」からの帰り道、俺が自転車で家に向かって走っていると、國無から電話が掛かってきた。

俺は自転車を停め、携帯を取った。

「凛、今どこだ」

「今、家に向かってるところだけど……」

「すぐに帰って来い。緊急事態だ。今お前の家の前にいる」

そう言って國無は一歩的に電話を切った。

仕方なく俺は自転車にまたがり、大急ぎで家に帰った。

 家の前に着くと、國無が車を停めて待っていた。

今日は黒のハイエースに乗っていた。

俺が運転席が側の窓際に自転車を付けると、國無が窓を開けて言った。

「早く乗れ。マユミが危ない」

「!!!」

俺は自転車を自転車置き場に停め、ハイエースに乗り込んだ。

國無はすぐに車を出した。

 気がつくと俺の足元に小さなトランクが置いてあった。

「早く用意しろ。〝デザイア〟になるんだ」

國無は前を見つめたまま言った。

トランクの中には〝デザイア〟になる為の一連の変装グッズと武器が詰め込まれていた。

「なあ、緊急事態ってどういうことだよ」

俺は着替えながら國無に問い詰めた。

「昼間『ワールド』に『ニガー』連中がきただろ?その中にオールバックの大男がいただろ。あいつは鬼頭といって『ニガー』の頭で、過去にマユミの恋人を殺し、マユミ自信を犯した張本人だ」

「何だって……」

「鬼頭との再会でマユミの中で眠っていた復讐心に火が点いた。マユミは今日中に何らかの行動をしようとしている。その証拠にマユミは今、長期延滞者のリストを持って単車で『ニガー』の連中の後を付けている」

「何をする気なんだ?」

「恐らく、目的は二つある。一つは鬼頭に復讐すること。だが、具体的に何をしようとしてるのかまでは分からない。それともう一つは〝デザイア〟に会うことだ」

「……俺に?」

「お前じゃない〝デザイア〟にだ。マユミはお前の正体気づいてないだろ」

「同じことだろ。〝デザイア〟は俺じゃないか」

「恐らくマユミは〝デザイア〟に自分の胸のうちを聞いてもらいたいと思っているはずだ。今、自分の気持ちを受け止めてくれるのは〝デザイア〟だけだと思っているからな。今日、『ニガー』の連中が持ってきたチラシを見て決意したんだろう」

「何であんたそんなことまで知ってるんだ?」

「そんなことはどうでもいい。へたをすればマユミは鬼頭に殺されるぞ。あいつは人を殺すことなど何とも思っていないからな。恐らくまたレイプしてから殺すだろうな。あいつは今お前のことでイラついているからな」

「俺のことってどういう意味だよ?」

「お前がこの前犯した小林和美は鬼頭の女だ。鬼頭はその犯人を捜している。そして、それが『ニガー』を的にかけている〝デザイア〟の犯行であることもうすうす感づいている。普段鬼頭は長期延滞者への取立てを全て部下に任せている。鬼頭が現場に出る時は何か特別な理由がある時だけだからな」

「……俺があいつの女を犯したって?あんたいつから知ってた?まさか、その為に『ワールド』の会員の中から女を選ばせていたのか」

「いいかよく聞け。逆にこれはチャンスでもある。ここでうまく立ち回ればシナリオ通りにマユミをお前の女にすることができるかもしれないぞ」

「何がシナリオ通りだ。あんた人の気持ちを何だと思ってるんだ。好き勝手弄びやがって」

「……おい、忘れたのか?安久津の死を。お前の暴走のおかげでだいぶ計画が遅れているんだ。それにもし、今の段階でマユミを失ったらお前は明日から生きていけるのか?さっきも言ったがこれはチャンスでもある。目的の為には手段を選ぶな。小さなことは切り捨てろ。言っておくが鬼頭は今までの雑魚とはわけが違うぞ。今のお前じゃ正面から挑めば返り討ちにあってすぐにあの世行きだ。そうならない為にも俺の言うことを聞け」

「……わかった」

俺は國無の言葉に飲み込まれ反論することが出来なかった。

俺はニット帽とサングラスを着用し、全身黒の衣装に身を包み、口の中でボイスチェンジャードロップを転がしていた。

トランクの中のスタンガンや催眠スプレーを手に取り、これから起こる殺し合いのビジョンを頭の中で想像する。

いつか國無が言っていた。

「実戦に勝るトレーニングは常に身の危険を想像し、瞬時に体が動くようにイメージしておくことだ。」

俺は狭い車内の中でそれを繰り返していた。

「鬼頭に今までのような単純な攻撃や騙し討ちは通用しないぞ。本来ならまだぶつかるのは早い段階だが、そうも言ってられないしな。今日は新兵器を用意した。後部座席にもう一つトランクがあるだろ。それを開けてみろ」

國無に言われたとおり俺は後部座席からトランクを持ち上げ中を開いた。

「……これは?」

「気をつけろ。そっと扱えよ」

俺は初めて見るそれに目を奪われていた。

「いいか、時間が無いから簡単に説明するぞ。今から……」

「……」

國無は前々から決めていたようにぺらぺらと今から行う無謀な作戦を俺に説明した。

國無の無茶な話は今に始まったことではなかったが、それでも國無の口から出た言葉はそれこそ映画のワンシーンのような話だった。

「……おい、聴いてるのか?お前の働き次第で結果が変わってくるんだぞ。マユミが欲しくないのか?しっかりしろ」

「……ああ、わかってる」

俺は必死に國無が言った言葉を頭の中でイメージし、これから確実に起こるであろう非現実的な場面に自分がついていけるように努力していた。

そんな中、國無が車を停めた。

          6

 目の前には信じられない光景が広がっていた。

國無が車を停めた場所は「ニガー」の事務所前だった。

俺は車の中から目の前の光景を見つめていた。

まさに今、マユミが「ニガー」の連中に腕をつかまれ、事務所に連れて行かれる瞬間だった。

連中の後ろには鬼頭の姿もあった。

鬼頭たちは車から降り、事務所に入ろうとしている。

「よし、行くぞ」

そう言うと國無は一気に車を加速させ、鬼頭たちが降りたばかりのベンツにハイエースを突っ込ませ体当たりさせた。

静まりきった街に轟音が響き渡った。

辺りに人影は無い。

いや、そんなことを気にしている暇もなかった。

鬼頭たちは突然の襲撃に目を丸くして呆然としていた。

まだ、頭が現実についていっていない感じだった。

マユミの腕を掴み連行していた「ニガー」の連中もあっけに取られマユミの腕を離していた。

國無はすぐに車を荒々しくバックさせ、マユミの前に横付けした。

「今だ、やれ!」

國無の声と共に、俺は助手席のドアを明け、マユミの手を取りハイエースの中へ引き込んだ。

俺とマユミの目と目が重なり合った。

マユミは突然現れた〝デザイア〟に呆然となり、されるがままに車の中へやってきた。

マユミを抱きかかえ、俺は助手席のドアを閉めた。

それとほぼ同時に國無は車を猛スピードで発進させた。

狭い室内で俺とマユミは身体を密着させた。

ほのかに甘い香りが俺の心臓の鼓動をさらに加速させた。

 そんな俺を現実に引き戻したのは國無の一言だった。

「来たぞ!」

ハッとなり、横を見ると窓の外には鬼頭と「ニガー」の連中が半分潰れたベンツでハイエースの横にぴったりと横付けしたまま追ってきていた。

俺は鬼頭と目があった。

鬼頭は自らベンツを運転していた。

俺は鬼頭と視線を絡ませた。

鬼頭は鬼の形相で俺を睨みつけている。

その眼はたった今襲撃されたことに対する怒りだけではなく、恋人を奪われたことに対する怒りも含まれていた。

鬼頭は明らかに俺を〝デザイア〟だと認識している。

鬼頭は何の躊躇もなく、ベンツをハイエースにぶつけてきた。

その度に車は轟音と共にものすごい衝撃を受ける。

衝撃で助手席のドアが凹み、窓ガラスに亀裂が入った。

俺はマユミを急いで後部座席に移動させた。

「身を屈めて頭を低くしてろ」

ボイスチェンジャードロップで低くなった声で俺はマユミに言った。

マユミは必死で言われ通りに後部座席で亀のように丸くなっている。

その間にも鬼頭は容赦なく車をぶつけてくる。

ついに助手席の窓ガラスは粉々に砕け散った。

鬼頭は運転しながら大声で叫んでいる。

「テメエら、このまま無事で済むと思うなよ」

鬼頭の目はまるで野獣が獲物を狙うような眼をしていた。

俺は無意識に國無に視線を送った。

「何やってんだ。このままだとやられるぞ。早くやれ」

國無は前を見たまま大声で叫んだ。

俺は足元のトランクを大急ぎで開けた。

そして、そこに詰まっている液体の入った小型のビンを手に取り、蓋の代わりに詰まっている液体の染み込んだ布にライターで火を点けた。

國無が用意した新兵器とは小型の火炎瓶だった。

火の点いた火炎瓶を持って俺は鬼頭が運転するベンツに振り返った。

火炎瓶を見た鬼頭の眼が一瞬にして変わった。

俺が火炎瓶を投げようとした瞬間、鬼頭は車を体当たりさせ、その衝撃で俺は窓の外に火炎瓶を落としてしまった。

火炎瓶は鬼頭のベンツのすぐ横の道路に落ち、炎上した。

それでも鬼頭の車のスピードは一瞬緩んだ。

ようやく、ベンツとの間にわずかな距離ができた。

「まだだ、もう一回ブチかませ!」

國無の声と共に俺はもう一度火炎瓶に火を点け、思いっきり鬼頭の運転するベンツの正面に投げつけた。

火炎瓶は突っ込んでくるベンツの前方で爆発し炎上した。

その衝撃で鬼頭の車はやっと停まった。

バックミラーに慌てて車から脱出する鬼頭たちの姿があった。

國無の運転するハイエースは猛スピードでその場から走り去った。

 辺りは静まり返っていた。

マユミは公園のベンチの上で意識を取り戻した。

気がついた時、マユミは初め自分がどこにいるのか分からなかった。

 「ニガー」の連中に捕まり、非現実的なカーチェイスを体験していた最中にどうやら意識を失ってしまったようだった。

マユミは覚えていなかったが、実際にはどさくさに紛れて國無が催眠ガスで眠らせたのだった。

もちろんそれは最高の演出をする為に計算に入れてのことだった。

 ベンチから体を起こしたマユミの視界に入ってきたのはニット帽と特殊なサングラスで顔を覆われた男の姿だった。

「よお、気がついたか」

「……」

マユミは驚きを隠せなかった。

マユミは数日前から無性にこの男に会いたいと願っていた。

その為に「ニガー」の事務所の周りをウロウロしていたのだ。

「ニガー」の連中に捕まっていた時、突然自分を助けに現れたこの男に正直ドキドキしていた。

自分の手を取り、車に引き入れ抱きかかえてくれた時、胸がキュンとなった。

それはマユミが久しく忘れていた感情だった。

マユミはこの時、はっきりと確信した。

自分は「この男が好きなんだ」と。

呆然と目の前の男を見つめているマユミに〝デザイア〟はアイスココアを手渡した。

「よかったらどうぞ」

〝デザイア〟からもらったココアを飲んだマユミは落ち着きを取り戻した。

「どう、少しは落ち着いた?」

「……うん。ありがとう。ねえ、あなた〝デザイア〟でしょ?何であたしを助けてくれたの?」

「あれはたまたまさ。俺は「ニガー」の連中を潰そうと思ってるんだ。そこにたまたま君がいただけさ」

「あなたは長期延滞者を助けてるんでしょ?何でそんなことしてるの?危険なだけじゃない」

「さっきも言ったろ。俺はあいつらを潰したいだけだ。別に延滞者を助けたいわけじゃない」

〝デザイア〟の口から出た言葉は以外にも冷たいものだった。

「何であなたは『ニガー』を潰そうとしてるの?彼らに怨みでもあるの?」

「君には関係ないことだ。とにかく一つだけ忠告しておくけど、もう二度と『ニガー』に近づいちゃだめだよ。君の気持ちは良く分かる。でも、君が手を汚す必要は無い。その為に俺みたいな男がいるんだからね」

「……」

マユミは黙ったまま俺を見つめていた。

「さ、だいぶ落ち着いたろ。家まで送るよ」

俺は立ち上がったがマユミはベンチに腰を下ろしたまま動こうとしなかった。

「……まだ帰りたくない。もう少しあたしの話を聞いて」

「……」

「あたしね、昔元彼を……」

「君の話に興味は無い。帰らないなら俺はもう行くよ。時間が無いからね。君は何か勘違いしているんじゃないのか?君の目の前にいる男がどんな男か知っているのか?ここに君一人残して帰ることもできるんだぞ。ホームレスや変質者がウヨウヨしているこの夜の公園にね。さあ、通りまで送っていくから帰るんだ」

俺は冷たくマユミを突き放した。

それはもちろん國無にきつく言われていたからだった。

「〝デザイア〟に惹かれているマユミを冷たく突き放し、お前に好意をもつようにする」

國無のこの言葉を聞いていなければ、俺がマユミにこんな態度で接することはなかった。

傷ついたマユミを強く抱きしめ、最後まで話を聞いてやりたかった。

しかし、それでは駄目だと自分でも分かっていた。

もし、今の姿のままでそんな態度をとってしまえば、マユミは今以上に〝デザイア〟に惹かれてしまうだろう。

俺は目的の為に自分の気持ちを押さえ込んだ。

〝デザイア〟の言葉を聞いてマユミは下を向いたままおもむろに立ち上がったかと思うと、突然、夜の公園の中に走り去って行った。

走り去る直前にマユミの目からは涙が溢れ出していたように見えた。

これでいいんだと思う一方で俺はマユミが心配だった。

半分冗談で言った自分の言葉が胸の中で津波のように押し寄せてきた。

「ホームレスや変質者がウヨウヨしている夜の公園」

確かにここには何人ものホームレスが住み着き、変質者も多く出没すると聞く。

過去には殺人事件もあったという。

しかし、実際にマユミが被害に遭うとは思えない。

しかし、妙な胸騒ぎがいつまでたっても納まらなかった。

俺はマユミが走り去った闇の中をいつまでも見つめていた。

                                                 【続く】

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2006年10月20日 (金)

デザイアと呼ばれた男  VOL 10

 こんにちは。D・二プルです。

 この間、しばらくタイへ行ってきました。

 そこで得た体験は私の作家人生にとって大きな財産となりました。

 タイでの体験を踏まえて、私は今最新作の執筆活動に入っています。

 いずれ皆さんにもその作品はお目にかけると思います。

 では、「デザイアと呼ばれた男」の続きをどうぞ。

          3

 バイトが終わった後、俺とマユミは近所の洋風居酒屋にいた。

薄暗い店内と微かに流れるジャズのメロディーがムーディーな空気をかもし出し、大人の空間を演出している。

店内はカップルがほとんどだった。

はたから見れば俺とマユミもその中の一組に見えたかもしれない。

 俺とマユミは向き合って奥の個室に座っていた。

俺はウーロンハイ、マユミは生を注文しとりあえず乾杯した。

少しすると適当に頼んだツマミを店員が持ってきてテーブルに並べ消えていった。

俺とマユミはツマミをつつきながら世間話をしながらジョッキの中のアルコールを喉の奥へ流し込んだ。

二人とも二杯目のジョッキを注文し、店員が消えた時マユミが本題を切り出してきた。

「昼間はごめんね。白坂の前で変なこと言って。でも、驚いた。まさか、あいつと五味君が知り合いだったなんて」

「ええ、あいつとは昔いろいろあったんですけど……安久津さんは白坂と付き合ってたんですか?」

俺は心の中にずっと溜め込んでいた質問を自然にマユミに聞くことができた。

「あたしがあいつと?やめてよ。あんな奴と付き合うわけないじゃん。本当にあいつとはなんでもないの。初めは『ワールド』の客だったんだけど、〝クライム〟のファンだって聞いて話が盛り上がっただけなの。そうしたらあいつが勝手に電話かけてきたり、メールしてきたりしてほんとウザかった」

「そうなんですか。よかった」

「ん?何が」

「……いや、あんな奴と安久津さんが付き合ってなくてよかったと思って。あいつは本当にたち悪い男ですからね」

「心配してくれたんだ。ありがと」

マユミはジョッキの生ビールを喉に流し込み、わずかな沈黙が流れた。

微かに聞こえるジャズと他の客や店員の声が沈黙の間をもたせた。

「ねぇ、前にあたしの元彼の話したの覚えてる?」

「……ええ、事故で亡くなったって」

「実はあれね、本当は事故じゃなかったの。うちの店と契約してる回収業者いるでしょ。あいつらヤクザみたいなもんで、長期延滞者にギリギリの追い込みかけてるの。彼は回収業者に追い詰められて殺されたの」

「……」

俺は初めてその話を知ったように驚いた表情を作っていた。

「それなのに何で『ワールド』で働いてるんだと思うでしょ。実はあたし、あいつらに復讐しようと思ってるの。あたしは彼を殺したあいつらをどうしても許すことができなかった。女一人に何もできないことは分かってる。でも、あいつらだけはどうしても許せなかったの。だから、あたしは『ワールド』で働きながら情報を集めてあいつらに復讐するチャンスをうかがってたの」

マユミの目からは涙が溢れ出していた。

「でもね、最近ちょっといいことがあったの。実はあいつらに追い討ちをかけるように長期延滞者を助けてる人がいるんだって。顔も名前も分からないけど、その人はもう、何人もの回収業者を潰して病院送りにしてるんだって。何か『ワールド』の上の方でも問題になってるらしくて店長がこぼしてたんだ」

マユミは目をキラキラと輝かせ〝デザイア〟の話を俺に聞かせた。

「……でも、どんな奴なんですかね?そんなヤクザと戦うような男って」

「分からないけど、きっと素敵な人だと思うな。一回でいいからあってみたいな」

「安久津さん、昼間言ってた好きな男ってもしかしてその男ですか?」

「そう。ごめんね。昼間は白坂の前で変なこと言って。あの時はあいつの鼻を明かしたくてまるで五味君と付き合ってるみたいに言っちゃたけど、びっくりしたでしょ」

「……いや、そんな」

「あたしね、彼が死んでからずっと人を好きになれなかったの。前に父の話したでしょ。あの件もあてあたしあんまり男を信用できないでいたの。そして、彼が死んでしばらくはずっと一人でいいやって思ってた。でも、その回収業者と戦う男の話を聞いた時、久しぶりに忘れてた感情が甦ってきたような感じがしたの。久しぶりに胸の奥がキュンとしたんだ。ああ、一回その人に会ってみたいな」

俺はマユミの話を複雑な気持ちで聞いていた。

マユミは俺をまるで男と意識していない。

マユミが想いを寄せているのは回収業者と戦う謎の男〝デザイア〟だ。

しかし、〝デザイア〟は俺自身だ。

恋のライバルが自分自身だというのか?

しかし、今マユミに〝デザイア〟の正体を明かすわけにはいかない。

まだ計画の途中だし、それにへたにばらしたら逆に嫌われる恐れもある。

よく考えればここまでは國無の計画通りにコトが進んでいる。

マユミは確かに〝デザイア〟に興味を示している。

ここは下手な行動を起こすより、國無の言う通りに行動したほうがいい。

俺は自分の想いを秘めたままウーロンハイと一緒に喉の奥へ流し込んだ。

「ごめんね。あたしの話ばっかり聞いてもらっちゃて。こんな話まともに聞いてもらえるの五味君だけだからさ。あ、こんどは君の恋話聞かせてよ。前に言ってたじゃん。好きな人がいるって。その後、どうなった?進展した?」

「……いや、俺、奥手でなかなか好きな子の前だと何も言えなくなっちゃうんですよ」

「だめだよ、そんなんじゃ。男はちょっと強引ぐらいの方がいいんだよ。どれ、お姉さんに相談してごらん。きっとその娘とうまくいくようにしてあげるから。あ、ごめんね。ちょっとトイレ行ってくる。帰ってきたらみっちり聞くから」

そう言い残してマユミは席を立った。

マユミの言葉を聞いてうれしい反面、妙な空しさが心の奥を駆け巡っていた。

俺はジョッキに残っていたアルコールを一気に飲み干して、おかわりを注文した。

 その後、俺とマユミは店を変え、朝まで飲み通した。

二件目の居酒屋は朝までやっている沖縄料理屋でゴーやチャンプルと泡盛を大量に摂取した。

そこでの会話はほとんど覚えていない。

たぶんたわいもない話をしていたと思う。

 沖縄料理屋を出たマユミは帰るのが面倒だと出だし、「ワールド」に泊まっていくと言い出した。

以前にもマユミは深酒をして翌日もシフトに入っている場合は「ワールド」に泊まりそのまま働いていたという。

一端家に帰ってしまうと起きられず必ず遅刻するというのだった。

俺とマユミは肩を組んで千鳥足で「ワールド」に向かって歩き出した。

 「ワールド」に着くとマユミは慣れた手つきダンボールを棚から取り出し、休憩室の冷蔵庫の前に敷くと腹をだしたまま大の字で眠ってしまった。

マユミは俺のことをまるで警戒していない。

男として見ていないのだ。

俺はすごく悲しくなった。

一気に孤独感が押し寄せてきた。

イスに腰掛け、タバコをふかしながら露になったマユミのお腹を見つめていた。

今、マユミの目の前にいるのは、連続レンプ魔〝デザイア〟だ。

國無由自の完璧な仕事のおかげで警察沙汰にはなっていないが、何人もの女たちを犯してきた語極悪非道の犯罪者だ。

俺の前でこんなにも無防備な姿を見せることがどれほど怖いことか思い知らせてやろうか。

俺は一瞬、マユミを犯している自分を想像した。

しかし、俺は動くことができなかった。

こんなにも俺を信じ、無防備な姿を見せるマユミがとても愛おしく思えた。

こんなマユミを犯すことなどできなかった。

俺はマユミにダンボールをかけると明かりを消して、ドアに鍵を掛け「ワールド」を後にした。

          4

 朝、眠い目をこすりながら俺は「ワールド」に向かった。

正直、まだ昨日の酒が完全に抜けていない。

睡眠時間も二時間ぐらいしかとれていなかった。

それを無理やり熱いシャワーと濃いコーヒーで誤魔化して、俺は出勤時間の一時間前に「ワールド」に到着した。

 扉の鍵を開け中に入ると、予想通りマユミはまだ寝ていた。

昨日俺がかけて帰ったダンボールをふっ飛ばし、大きく口を開いて寝息を立てながら、へそを丸出しにした状態で、大の字になって眠っていた。

俺はマユミをそのまま寝かしたまま休憩室の垂れ幕を落とし、外から見えないようにした。

エプロンを着け、レジの電源を入れ、レジ金のチェックを始めた。

 開店準備を整えた俺はCDプレイヤーの電源を入れ、音量を下げてからラブサイケデリコの「ラストスマイル」を掛けた。

どこか悲しげなメロディーを聴きながら俺は昨日のマユミとの会話を思い出していた。

マユミは〝デザイア〟に惹かれている。

〝デザイア〟の正体は俺だが、マユミは俺のことを男と意識していない。

俺の中で妙な空しさが広がりすごくやりきれなくなった。

 その時、奥で物音がして、マユミが休憩室からよろよろと顔を出した。

「……おはよー」

「おはようございます」

マユミはまだ寝ぼけている。

酒も抜けきれていないようだった。

「……五味君昨日はごめんね。あたし途中から全然記憶なくて、ここまで連れてきてくれたんでしょ。ごめんね。あたしから誘ったのに迷惑かけました」

「いや、そんな全然いいですよ。俺の方こそ昨日は楽しかったです」

「……五味君っていい人だね」

そう言ってマユミは奥のトイレに入って行った。

マユミが言った〝いい人〟という言葉が俺の胸に突き刺さった。

男にとって好きな女から〝いい人〟と言われるのは最悪のことだった。

それは自分が男として見られていないということの象徴のようなものだった。

胸の奥から熱いものが込み上げてくるようだった。

俺は居ても経ってもいられなくなり、立ち上がった。

休憩室を通り抜け、トイレのドアをノックした。

「安久津さん、俺ちょっとコンビに行ってきます。何かいりますか?」

中から返事はなかった。

俺はもう一度ノックして叫んだが、やはりマユミは返事をしなかった。

ゆっくりと扉を引いてみると鍵は掛かっていなかった。

中を覗いてみるとマユミはショーツを下げ、便器に腰をかけたまま眠っていた。

初めて見たマユミの色白の形のいい尻が俺の心を癒してくれた。

俺は静かに扉を閉め、休憩室から出ると、入り口に鍵を掛け、階段を下りていった。

 俺は「ワールド」の下にあるコンビニでコーヒーとパンを買いすぐに戻った。

鍵を開けて中に入るとカウンターの中でエプロンを着けたマユミが朦朧と立っていた。

「安久津さん、大丈夫ですか?」

「……うん、五味君どこ行ってたの?」

「下のコンビニでコーヒー買ってきました」

俺はマユミにコーヒーのペットボトルを手渡した。

「わぁー、ありがと」

マユミは目をきらきらさせて、コーヒーをがぶがぶと音をたてて喉へ流し込んだ。

「はぁー、生き返った。よし!そろそろオープンだね。店開けよっか」

「はい」

俺は店を開け、音楽をユウセンに切り替えた。

 幸いオープンしてすぐは2,3人の客しかこなかった。

俺とマユミは特別仕事をするわけでもなく、カウンターの中で朦朧と立ちながら、世間話をしていた。

「五味君、朝、『ラストスマイル』かけてくれたじゃん。あれよかった。すごくいい目覚めだった」

「俺もあの曲好きなんですよ」

「あの曲ね、私にとっても思い出の曲なんだ。死んだ元彼が好きだったの。あいつよくこの曲聴いてたな」

「……」

マユミは俺に話しながら元彼のことを思い出しているようだった。

俺は再び寂しさを感じた。

マユミの中で死んだ彼氏はまだ生き続けている。

現実の世界では〝デザイア〟に魅せられている。

マユミの中で俺の存在はただのバイトの仲間というだけのちっぽけな存在に思えてしかたなかった。

 その時、店内に三人の黒服を着た男達が入ってきた。

男達を見たマユミの表情が明らかに変わった。

男達は間違いなく「ニガー」の連中だった。

「いらっしゃいませ」

マユミが明らかにトゲのある声で言った。

「店長はいるか?」

「今日はまだ出社していませんが……」

俺はマユミと「ニガー」の連中のやりとりを黙って横で見ていた。

連中の顔には見覚えがあったが、俺は知らん顔をしてとぼけていた。

「これを店長に渡しておけ」

そう言って「ニガー」の男はカウンターに一枚のチラシのようなものを叩きつけた。

マユミはチラシに目を奪われている。

俺も横目でチラシを見た。

そこにはニット帽にサングラス姿の〝デザイア〟の似顔絵が書かれていた。

「これは?」

「いいから店長に渡せばいいんだ」

「ニガー」の一人がそう言った時、後ろから黒いスーツ姿のサングラスを掛けたオールバックの大男が現れた。

大男の出現に男達は驚き、一礼した。

この大男が「ニガー」の頭 鬼頭だった。

「よう、久しぶりだな。元気か?」

鬼頭はマユミに言った。

「……まあね」

「そう怖い顔で睨むなよ。俺たちはこの男を捜してるだけだ。俺達の行き先に現れるということはここの情報が漏れてる可能性もあるからな」

「誰なの?」

「噂ぐらいは聞いてんだろ。俺たちの邪魔をして長期延滞者を逃がしてる〝デザイア〟ってクソヤローだ。何か分かったら教えてくれよ」

そう言って鬼頭は俺に視線を向けた。

「兄ちゃん、新入りかい?」

「……はい」

「そうか、こいつは男勝りだが、中身は女だ。しっかり守ってやりな」

「……」

「じゃあ、邪魔したな」

そういい残して鬼頭は去って行った。

「ニガー」の連中も鬼頭の後ろから金魚の糞のようについて出て行った。

マユミはまだ〝デザイア〟のチラシを見つめていた。

これが俺と鬼頭のファーストコンタクトだった。

俺たちが再び対峙する時、殺し合いの火蓋が切って落とされるのだった。

                                               【続く】

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2006年10月16日 (月)

デザイアと呼ばれた男  VOL 9

第五章  狂い始めた歯車

          1

 俺が病院を訪れた日から三日後、安久津は病院の屋上から飛び降りた。

夜勤明け間際の早朝に屋上に上がり、下の駐車場のコンクリートへダイブした。

屋上には綺麗に揃えられた安久津の靴だけがポツリと残されていた。

病院の安久津の机の中から「すまない」と一言書かれたメモ書きが見つかったが、他に遺書のようなものはなかった。

 マユミは一週間「ワールド」を休んだ。

マユミが休んだことで俺は安久津の死を知った。

そして、國無からそれが自殺だったと聞かされた。

 俺はショックだった。

まさか俺が原因で安久津は自殺したのか?

もし、そうだとしたら大変なことだ。

俺はマユミを救おうとして行動したのに、逆にマユミから大切なものを奪ってしまった。

しかし、安久津はどうして自殺したんだろうか?

ひき逃げ?

入院患者との情事を目撃されたから?

自分の悪癖をマユミが知っていたから?

少なくとも俺が安久津を追い込んだことに変わりはない。

 國無は俺を廃屋団地に呼び出し、安久津の自殺についてしつこく質問された。

「お前、何か俺に隠していることがあるんじゃないのか?まさか、単独で行動してないだろうな?」

俺は洗いざらい國無に全てを話した。

一人で病院に行ったこと。

そこで見たこと。

そして、安久津にしたことを細かく説明した。

國無は黙って俺の話を聞いていたが、話が終わると冷静に言った。

「しばらくデザイアとして行動することを禁じる。しばらくは普通にバイトでもして頭を冷やせ。それからもう二度と俺の指示無しで勝手に行動するな。今回はこれぐらいで済んだからよかったようなものの、今度勝手な行動をとったらどうなるか責任持てないぞ。マユミをお前の女にする約束も果たせなくなるかもしれないぞ。今回のことでもオレのシナリオはだいぶ狂ってしまったからな」

俺に説教を終えると國無は俺を帰らせた。

 それからしばらくは「ワールド」でのバイトだけの生活が続いた。

レイプも暴力も無しのごく普通の生活。

以前はそれが当たり前だったはずなのに何か物足りないようなモヤモヤ感が心にへばりついているようだった。

 一週間後、マユミは「ワールド」に出てきたが、仕事上必要なこと意外はほとんど話さなかった。

俺も安久津の死については一言も話さなかったが、マユミは俺の話もまるで聞いておらず、上の空だった。

抜け殻のようになったマユミは黙々と仕事をこなしていたが、心の中で泣いているのがはっきりと分かった。

そんなマユミを見ていると、俺まで元気をなくし落ちていった。

バイトから帰ると酒を飲み、罪悪感に悩まされながら荒れた。

部屋中の物を投げ、家具を破壊し、ストレスを発散させた。

それでもストレスは溜まる一方だった。

そんな荒みきった生活は俺を病気にした。

熱にうなされ、体の節々が痛くなり、喉はやられ声も出ず、鼻もつまり、腹も痛くなり、吐き気がし、ひどい頭痛に悩まされた。

もちろん、「ワールド」もしばらくの間休んだ。

それでもずっと寝ていると体が余計に悲鳴を上げるので無理やり起き上がり、TVに蛇崩庵娯の「カトリーナ」を流しながらボーとしていた。

半分死んだような俺は「カトリーナ」を繰り返し見続けた。

問題のラストシーンも何回もみるうちに不思議と快感に思えるようになった。

それにも飽きると俺はパソコンに電源を入れ、音楽を聞きながら何をするわけでもなく、デスクトップの画面をボケッと眺めていた。

画面にはどこかの国の花畑の真ん中を通る曲がりくねった一本道が映っている。

不思議なことにただじっとその画面を見ているだけなのに退屈しなかった。

俺はこの見えない一本道の先から誰かがやってくるように思えてしかたなかった。

すると不思議なことに本当に道の先から人影が現れたのだ。

その人影は次第にこっちに近づいてきた。

やがて、輪郭がはっきりして人影の正体が分かった。

それは〝デザイア〟となった俺自身だった。

〝デザイア〟はものすごい形相でこっちに近づいてくる。

そして、画面から切れたて通り過ぎたと思った次の瞬間、なんと画面の中から〝デザイア〟が現れたのだ。

眼を見開き、呆然としている俺を〝デザイア〟は押し倒し、服を引きちぎると後ろから俺を犯し始めた。

俺は必死に抵抗したが、抵抗すればするほど〝デザイア〟は欲情し、息を乱しながら腰を振り続けた。

俺はもがきながら今まで自分が犯してきた女たちの気持ちを考えていた。

ああ、女たちもこんな気持ちだったのかな?

そう思った直後、〝デザイア〟は絶頂に達し、俺は意識を失った。

          2

 あの悪夢からすでに一週間が経っていた。

病魔に悩まされながら〝デザイア〟の幻に犯された翌日に、俺はすっかり回復した。

これまで俺に取り付いていたウイルスが嘘のようにどこかに行ってしまった。

 あんな禁断症状を見た俺だったが、その後特に変わった様子はなかった。

食欲と性欲もすっかり戻り、「ワールド」にもいつも通りバイトに行った。

 マユミもすっかり元気を取り戻していて、表面的にはいつもの日常生活に戻っていった。

 

 その日も俺はいつものようにマユミと一緒のシフトに入り、すっかり慣れた仕事をこなしていた。

今日は新入荷の商品が入る日で、大量の洋画、邦画、アニメ、AV、洋楽、邦楽が入ってきた。

これらの入ってきた商品をレンタル用に仕上げるのはなかなか面倒な仕事だった。

まずはセルようのケースからレンタル用のケースに入れ替え、それに新作シールを貼ったりビニールでコーティングしたりして加工していく。

その間に客が来ればもちろん接客しなければならない。

確かに面倒な作業ではあるが、一緒にやる相手がマユミであればそれは楽しいおしゃべりタイムへと変わっていくのだった。

俺とマユミはカウンターでの接客業務をしながら、商品作りをもくもくとこなしていった。

「あ、ちょっとそれ見せて」

俺があるCDに新作シールを貼っていると横で作業していたマユミが突然騒ぎだした。

俺が持っていたCDを渡すとマユミは少女のように瞳を輝かせキャッキャと一人で騒ぎながらジャケットの中からCDを取り出し、今まで掛かっていたユウセンを止め、CDプレイヤーにセットした。

突然、ジャズ風の静かなピアノのメロディーが流れ始めたと思うとその曲はガラッと変わり、けたたましい轟音を響かせながらミクスチャーのハードコアに変化した。

マユミはさらにボリュームを上げ、体でリズムを取りながら奥の休憩室から戻ってきた。

「これ今一番好きな曲なんだ」

そう言ってマユミは俺にそのCDのジャケットを手渡してきた。

それは〝クライム〟の新作「ブロークンハートジャンキー」だった。

これが前にマユミが話していた〝クライム〟か。

俺は〝クライム〟の曲を初めて聴いた。

激しい轟音を撒き散らしているのにどこか悲しげな印象が伝わってきた。

それはたぶん〝クライム〟のボーカルの影響だろうと俺は思った。

〝クライム〟の詞は個人的な日常生活の中に潜む恋愛体験や失恋した悲しみを歌っているものだった。

以前、マユミが歌っていたラブサイケデリコの「ラストスマイル」と共通する何かを感じた。

俺は〝クライム〟の曲を聞きながらマユミの音楽センスに改めて惚れ直した。

俺はいつの間にか作業していた手がすっかり止まったまま〝クライム〟のジャケットを見つめたまま涙を流していた。

〝クライム〟の曲は俺の中に眠る何かを呼び起こしたようだった。

 そんな俺をマユミが横でジッと見つめていた。

「どうしたの?大丈夫?」

マユミの言葉で俺は我に帰り、自分が涙を流していたことに気づいた。

俺は慌てて涙を拳で拭き、作り笑いを浮かべた。

「大丈夫です。何かすっかり入っちゃって……。良い曲ですね」

「うん。大好き」

その瞬間、俺とマユミの目が合い、視線が絡み合った。

俺はこの時、いつも以上にマユミとの距離が縮まったような気がした。

しかし、楽しい時間はいつまでも続かなかった。

「あれ、お前五味じゃないか?」

その声で俺は夢の世界から現実世界へ引き戻された。

それは〝クライム〟の「ブロークンハートジャンキー」はちょうど終わった時のことだった。

マユミは休憩室に曲を変えに行っていた。

俺の目の前にはスーツ姿の白坂が立っていた。

「……白坂」

「やっぱり五味か。何だお前ここでバイトしてたのか?」

「……」

俺は黙って白坂を睨んでいた。

「相変わらず嫌な目つきしてるな。今の俺は客だぜ。もっと微笑めよ」

その時奥からマユミが出てきた。

「あれ、白坂くんどうしたの?」

「いや、チケット取れたから持ってきたんだよ」

そう言って白坂は内ポケットから封筒に入ったクライムのチケットをマユミに手渡した。

「わぁー、取れたんだ。ありがと」

白坂は二枚あるチケットのうち一枚を引き抜いた。

「一枚は俺のだぞ。後でまた連絡する」

「……うん、わかった」

俺は二人のやりとりをカウンターの隅で見ていた。

俺の頭の奥で眠っていたあの夜の記憶が甦ってきた。

俺はどうすることもできずに金縛りにあったようにその場に突っ立って二人を見つめていた。

そんな俺の視線に気づいたのか、白坂が余計な口を開いた。

「そうそう、お前知ってた?俺とこいつ元同じ制作会社にいたんだぜ」

「え、五味君が?そうなんだ」

「こいつ俺の部下だったんだけどさ。昔から本当に使えない奴で、よくいじめてやったもんだよ。そうしたらこいつ俺に手出してきやがって、当然クビだよな。まあ、辞めてよかったよ。お前才能無いもんな」

その瞬間、俺はぶちキレた。

頭では分かっていた。

ここでまた白坂を殴れば俺は「ワールド」をクビになる。

そうなればますます白坂の思うつぼだった。

しかし、俺はどうしても我慢できなかった。

俺が拳を握り締めた瞬間、マユミが白坂の頬に平手打ちをぶちかました。

予想外の展開に俺は我に帰った。

「あんた、言いすぎよ。そういうデリカシーの無さが嫌いなの」

マユミはさらに白坂を殴ろうとしている。

俺は必死にマユミを止めた。

「安久津さん、落ち着いて。俺のことはいいですから」

「……何すんだこのアマ。せっかくチケット取ってきてやったのに」

マユミは持っていたチケットをカウンターの上に叩きつけた。

「せっかく取ってもらったけど、やっぱりいらないわ。それにあんたと行く予定なんて全然なかったし」

「なんだと……」

「ちょっと〝クライム〟の話題で盛り上がったぐらいでなれなれしいのよ。それにあたし他に好きな人がいるの。だからあんたと付き合う気はないから。もう連絡しないで」

「……他に好きな男だと。そんなもんいたってしょうがねえだろ。誰がお前みたいな女を相手にするかよ」

白坂の言葉の暴力に俺は再びキレそうになった。

その時、マユミが俺の腕を組んで言った。

「……悪いけど、あたしたち付き合ってるから。だからもう邪魔しないで」

「は?五味と?こいつはいいぜ。お前ら似合ってるよ。とんだバカップルだな」

白坂の言葉は既に俺の耳には届いていなかった。

俺はマユミの予想外の行動に心臓をバクバクさせ、ただ呆然と突っ立っていた。

そんな俺を前に白坂はマユミに叩かれた頬を抑えながらゆっくりと立ち上がった。

「ふざけやがって。絶対に後悔させてやるからな……」

カッコ悪い捨て台詞を吐き捨て、白坂は「ワールド」から出て行った。

「ごめんね。突然あんなこと言って。びっくりしたでしょ」

「いや、それより俺なんかの為にありかとうございました」

マユミは既に俺の腕を離していた。

俺はマユミが組んでいた腕の感触を心の中で味わっていた。

「ねえ、五味君、今日バイトの後って時間ある?ちょっと話したいことがあるんだけど、よかったら一緒に飲みに行かない?」

「……はい」

俺は今聞いたばかりのマユミの言葉が信じられなかった。

白坂の存在が俺とマユミの距離を縮めたようだった。

次々に起こる予想外の展開に俺の心は激しく揺れ動いていた。

                                 【続く】

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